善正寺の歴史

1.はじめに

慈光のもと、平素よりひとかたならぬご懇念を賜り厚く御礼申し上げます。さて、このたび資料館を建立いたしましたのを機に、お越しいただきました皆様に、僭越ではございますが、当寺、善正寺の歴史をご紹介させていただきます。

大さきのうら吹風の朝なきに

田しまをわたるつるのもろ声

今川了俊

この和歌は、14世記の室町時代に中国、九州地方を治めた守護であり歌人でもあった、今川了俊(貞世)の和歌です。
「さやかに吹く風と朝なぎの中、大崎の浜(現在の防府市玉祖付近)より眺めると、向こうに見える田島に、群れをなして飛び渡っている鶴の鳴き声が聞こえる。」と詠んでいます。
また、1389年(康応元年)、室町幕府3代将軍足利義満(金閣の建立で有名)が、田島の小泊(田島東岸の風待ち港)に、立ち寄り、泊まったことが伝えられています。このことからわかるように、田島はもともと玉祖神社の沖に浮かぶ小島であったようです。

2.善正寺由来記

さてそれでは、この小島に本寺がどのように始まり今日に至るかを紐解いてみましょう。
善正寺の由来記によると、16世紀前半(室町幕府の後期)に河内国(現在の大阪府)から内田修理という武士が当寺の現在地「大倉」に移り住んできたといいます。その後、内田修理は、1540年(天文9年)、京都に上り本願寺第十世宗主證如上人(第8世宗主蓮如の曾孫)の弟子となり、法名を良清と改め、同年7月、この地に帰り庵をむすび、これを機に、豊後国(現在の大分県南部)佐伯の善正寺を引寺として、その寺号を許され一寺を建立したとあります。

建立期の時代背景

この頃は室町幕府第12代足利義晴の治世で、山口では大内氏が周防、長門を拠点に山陰地方東部の尼子氏をおさえ、石見、安芸、備後に勢力を伸ばし、西は豊前、筑前を治めるなど西国一の守護大名として全盛期を迎えました。

また、和歌や禅宗、絵画や儒学など宮廷や公家の影響を強く受けた華やな大内文化も生まれ、文化的にも栄えていました。さらに、1549年(天文18年)。鹿児島に上陸したフランシスコ・サビエルが上洛する途中、大内氏16代当主大内義隆に謁見したのも当寺建立の9年後のことといえます。

これら大内氏の繁栄は、経済的には、日明貿易の主要貿易ルートである九州から瀬戸内海域を支配することで、莫大な富を独占できたためといえます。

3.防府の開作と至玉山善正寺

さて、当寺が建立されたころ、この田島は前述したとおり、佐野峠の沖に見える小島であり、玉祖神社(一宮)の社領でした。良清師はこの田島の東浦小泊から上陸し、岡庄の南の小高いこの地、大倉をえらばれたといわれています。
当時の田島は住民も少なく、困難も多かったと思われます。しかし、ご門徒をはじめ地元の皆様の協力をいただきながら、ともに寺を守り御仏の教えを伝え広げたことと当時をしのび、思いを馳せております。
さて、開基以来90年ほど経った17世紀頃、ここ善正寺周辺でも新たな変化が見られ始めます。そう、開作(新田開発)事業です。1628年(寛永5年)、毛利元就のひ孫にあたる毛利秀就が初代萩藩主であった時、田島も汐合開作により陸続きとなりました。
その後、北側から西浦の女山周辺、東浦へと順次、開作が進み、1767年(明和4年)には浜方大浜まで広がり、ほぼ現在の防府市中関一帯が形成されていきました。
さらに、ここ田島東浦も人の往来が増え始め、本寺の記録によると、たびたび身分の高い人や藩の役人たちが参詣し、宿泊していったと書かれています。
また、この間の17世紀中期の寛文年間には、山門が造られ、1676年(延宝4年)には荒廃していた本堂が落慶し、寺名に「至宝山」冠し、至宝山善正寺と号しました。


さてここに描かれた古地図は1742年(寛保2年)の宮市(現在の防府市街地)
を描いた「御国廻御行程記」の一部です。善正寺もしっかり描かれております。
開作により拓かれて田畑になっている様子がわかります

開作の拡大と「防長四白」

1600年(慶長6年)、関ヶ原(別名:青野原)の戦いで、毛利氏は総大将として西軍について敗れ、領地は安堵されたものの中国地方最大の大名から周防、長門の二国37万石に滅封されました。このため藩財政は逼迫し、検知を厳密に行うとともに新田開発を積極的に行い、年貢米の増産に努めました。

防府市浜方に「南蛮樋」という地名があります。この「南蛮樋」は、唐樋と共に海の干満を利用した干拓に欠かせない排水用の水門施設のことです。当時、全国に広がりつつあったこれらの外国から伝わったといわれる干拓技術により、瀬戸内海沿岸でも干拓による新田開発が進んだようです。

また、干拓は米の増産だけでなく、入浜式による塩田の開発を促し、三田尻(現在の防府)の塩は、播磨赤穂に次ぐ一大生産地となりました。

加えて、江戸中期になると、北前船による西回り航路が開発され、全国各地の沿岸部では交易が盛んとなりました。このため、18世紀中頃、中興の祖といわれる7代藩主毛利重就により三田尻には長州藩の港(御舟倉)が整備され、大阪をはじめ、全国各地に「米、塩、蝋、和紙」の白物4種類の特産物、いわゆる防長四白が三田尻港等から海路輸出され、藩財政を支えて行きました。

4.朝鮮通信使(朝鮮聘礼使)と善正寺

室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮(1392年~1910年)から日本に派遣された外交使節団のことを朝鮮(朝鮮聘礼使)と呼びます。特に、16世紀後半、豊臣秀吉による二度にわたる李氏朝鮮への出兵(文禄・慶長の役、韓国では壬申・丁酉の倭乱)の後、江戸幕府と季氏朝鮮では外交関係を修復します。

そして1607年から1811年まで、幕府の将軍が代わる度に12回も使節団が来日し、江戸まで往復しました。総勢は460名余りにもおよび、釜山から船団を組んで対馬を経由し下関へ、その後は中関沖を経て上関へさらに大阪に上陸後は陸路江戸に向かい将軍に謁見したと言われています。(12回目は対馬までで引き返しております)。その際、藩内を通過する船団の護衛をしたのが、三田尻に本拠地を置いていた御舟手組で、1000隻以上の舟を出して護衛したと記録されています。

朝鮮通信使は、各地の寄港地や逗留先で歓待され、近隣各地から役人のみならず文化人、医師等が集まり今で言う国際交流を積極的に行ったようである。防府に関しては、1711年(正徳元年)第8回朝鮮通信が三田尻沖に1泊碇泊、1719年(享保4年)第9回朝鮮通信使が田島西浦に1泊したことが記録に残っており、本寺も門徒をはじめ多くの地元民が接待のため尽力したことがうかがえます。


ここは三田尻の御舟倉跡です。藩主の参勤交代や朝鮮通信使を護衛するため御舟手組が周辺に居住し、長州藩の主要港として栄えました。

5. 幕末の善正寺

時代は流れ19世紀になると、山口から始まった天保の大一揆により、防府でも農民一揆や打ちこわしが多発し、一揆は全域に及びました。
このような中、第13代藩主に就任した毛利敬親は村田清風らを起用して財政、農政、兵制等、藩政の大改革を推進し、のちの討幕の経済的力を蓄えました。
特にアメリカ合国ペリーの率いるいわゆる黒船来航により、各藩において海防の機運が高まる中、1863年(文久3年)には三田尻御舟倉を海軍局とし洋式海軍の育成を図りました。
同年、尊王攘夷をかかげた長州藩は「八月十八日の政変」で京都を追われ、翌年、巻き返しを図り、京都に軍を進めましたが禁門の変(蛤御門の変)で薩摩、会津藩に敗れました。
このため幕府を中心とした征討軍が長州藩を攻め(第一次長州征討・第一次幕長戦争)、藩は恭順の意をしめし、和睦することとなりました。
この時期を前後して藩内では、武士のみならず、奇兵隊に代表される諸隊が結成され、長州藩の軍事力として役割を果たし始めました。また、長州藩では宿敵であった薩摩藩との外交関係を坂本竜馬や中岡慎太郎らの仲介により修復し、薩長同盟が成立しました。このことは、薩摩藩のあっせんで長州藩がイギリスから武器を購入し、薩摩藩と長州藩が協力して討幕あたることを密約したことを意味します。
1866年(慶応2年)、幕府による「第2次長州征討(四境戦争)」が始まりまると、すでに薩長連合を結んだことにより薩摩藩は幕府軍に参加せず長州藩を支援しました。また、長州藩は芸州口、大島口、小倉口、石州口で幕府軍を迎え撃ち、諸隊の活躍もあり幕府軍を撃退するなど善戦しました。

ここに幕末の善正寺を知る資料があります。幕末維新期の長州藩と山口県の詳細な記録をまとめた「防長回天史」です。明治の元老井上馨(聞多)の依頼で1920年(大正9年)に23年の歳月をかけて編纂し発刊された歴史書です。その一説、右の資料を読み解くと以下のとおりです。


「慶応3年(1867年)10月9日、薩摩藩の艦艇の翔鳳丸と平運丸の2隻が鹿児島より来航し向島小田浦沖に錨をおろし停泊した。長州藩は2隻の艦隊士官にそれぞれ酒1樽と鶏5羽を送り、それに野菜も添えて贈呈した。
また、中関の善正寺には薩摩兵乗組員400名、光永寺(光宗寺の誤りか)には459名が招かれ、入浴後、宴会を開いてもてなし、乗組員の旅の疲れをいやした。」とある。
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